野島清治(山中狐太)と野島一子の文学、連句、絵画 、画像、動画、紙芝居 (詩・俳句・俳諧・連歌) を楽しむ世界  芭蕉 おくの細道 堀田善衞 山田一彦 瀧口修造

おくの細道の謎

おくの細道の謎

俳諧連歌に於ける自他場の付句の陥穽
          ー芭蕉の心法に戻れー                       野島 清治



自他、あいまいな付はよくない、と、おしゃる捌の方がいた。
 この捌の方は芭蕉が伊賀上野での最期となった月見の宴の芭蕉が自ら料理の腕を振るって記した「おしながき」を解読する事が出来ずに、旧国立大学ではそれでも日本語系統の教授である。加賀の北枝を加賀の蕉門第一の俳人に祭り上げたのは蘭更一派のなせる仕業のようだが、「芭蕉全釈書簡集」を出した田中善信白百合学園大学教授の研究によると、芭蕉が北枝に宛てた書簡は殆ど偽物との裁断である。

 
あの「焼けにけりされども花は散りすまし」の句について、芭蕉は丈草も褒めているような事を書いた事になっているが、文章はばらばらで芭蕉の繊細さがないのが疑問。加えてあの当時、丈草はまだ入門の新入り。芭蕉が取り上げるような格にランクされていない。おかしと思って、調べたら、北枝宛てのサイン入りはみんな眉唾ものであった。唯一、宛先の記入のない俳諧撰集「北の山」の題の付け方について、意見を述べた芭蕉の書簡の相手は、僧、句空と立花北枝が該当するが、これは本物であると折り紙を付られた。


元禄二年のあの「おくのほそ道」で加賀と越前は松岡まで随行した北枝が「山中問答」付録として「中の句、人情なき時は自他をふりわけて句作すべし。いか様に転じても中の句を両方にてみるなり」と書いていることから、後の代に『付方八方自他伝』という化け物が造られたのであろうが、おくの細道の後、琵琶湖の畔にしばらく滞在していた芭蕉が北枝にあの頃の俳諧精神が変わったから、出て来るように要請したが、なぜか北枝は尋ねていない。


「山中問答」も北枝が芭蕉に褒められたように書かれているのも気持が悪い。去来自書の「去来抄」のいやらしさとよく似ている。自分を褒めて書く事の精神が腐っているからであろう。句空が一夜共寝して土産までもらったのと比べても、北枝の越中生地辺りの物乞いにも似た行動からしても、加賀俳壇では句空は表で北枝は裏であった。


 芭蕉の宛名のない黒髪庵関係書簡は、井波の瑞泉寺第十一代住職であった浪化上人関係資料としていわゆる黒髪庵文書の一つである。これを近年、現地調査した時の田中教授のご託宣であった。


 ○日本国語大辞典に北枝の偽書説


例の捌のご仁は、北枝を祖とする希因ー闌更の流れの伊勢派一派が北枝を担いで編んだ付句の虎の巻『付方八方自他伝』論をあちこちで講演しているようだが、そのカラクリにまだ気が付いていないのだろうか。それはまず江戸末期の嘉永三(一八五〇)年頃の発見であり、北枝が死んでからあまりにも時代が経ち過ぎており、日本国語大辞典によると、「北枝に仮託した偽書とする説もある」とまで記述されている。いわゆる、こんな事を無視した無学とも言える大学教授の得意とするのは、一時流行った例の教条主義による連衆いじめであろう。


 さて本題に戻ろう。自他についてはまず自は自である「自の自」、これは自己の喜怒哀楽などの感想、所感、見解、動作、生活等についての表白、表現である。加えて自を他の自己と見る「他己の自」、世阿弥流で言えば「離見の離」と言えよう。一方、他はそれをいう他である「他の他」、他を自の他己と見る「他己の他」と、仮に規定するとしよう。しかし、中国の禅風漢詩『寒山詩』をもじるなら、「自にも非ず、他にも非ず、されど自なり、他なり、相聞するのみ」のいわゆる自他半がある。それで、自、他、自他半、そして人情なしの場。この分類で連句の付は全て収まる訳ではない。


 哲学者の西田幾太郎によると、表現は宇宙的認識の中の自己限定にすぎない。人間の認識は他の動物にも及ばない所が少なくないであろう。カントの認識の不可知論を持ち出すまでもなかろう。俳諧連歌はフロイドやユングまでも深く、広がってしまう。映画のアイゼンシュタインのモンタージュ論ともある面で結び付く。言語の文学空間を超える文学空間。それが軽みだとしたら、透明空間であろう。


  
○「灰汁桶」歌仙の「金鍔」のじ自、他論


例の元禄三年の『猿簑』の「灰汁桶』歌仙の裏七句目の「金鍔と人の呼バるゝ身のやすさ」の芭蕉の付句について、自他の問題に触れてみたい。


 金鍔は、殿の寵愛を一身に金鍔と呼ばれた小姓について詩人でフランス文学者であった安東次男は『七部集評釈』で取り上げているからである。彼は「君寵めでたい武士の身の上だと付けている」と断定しながらも、「前句の人を他より眺めた批評、と受取るべきところだろう(中略)あれ見よと指さす他者の目の導入が必要なのである。うまい恋離れである」と、評価しているが、果たしてどうか。「金鍔」受ける小姓の事であるから、これもやはり恋の句であろう。


 芭蕉の俳諧師としての出発点となった寛文十二年の句合評『貝おほひ』二十番で左「鹿をしも打たばや小野が手鉄砲」(政輝)に対して右「女夫鹿や毛に毛が揃うて毛むつかし」(宗房)と軍配を政輝に上げているが、子の『貝おほひ』の二番の右「兄分に梅を頼むや児桜」(蛇足)の句評の中で「われも昔は衆道好きの、ひが耳にや」と、衆道狂いの体験を告白している。二条関白兼次と世阿弥、足利義満の衆道の三角関係はあまりにも有名だが、元禄時代ごろまでは女、男の二つの道は公に認められていた。


 だから、次の「あつ風呂ずきの宵 の月」(凡兆)でようやく恋離れであろう。
 あつ風呂はさっと入ってさっと上がる。その気分が前の句の気分を転調している。


 昭和四年岩波出版の『芭蕉誹諧研究』は小宮豊隆が著作代表者だが、連歌研究者の立場から発言する山田孝雄、『平田篤胤の神道に於ける耶蘇教の影響』を発表済みの思想史研究者・村岡典嗣、阿部次郎、岡崎義恵ら当時の東北大学の教授連ら八人が座談メンバー。この中で芭蕉の「金鍔」の句の付についても、薀蓄を傾けている。


○山田博士が小宮の「自」の説を理解


 山田博士は、自の句とするな、という曲斎に近い批判的解釈の立場でいるが、「身のやすさ」の「身」から芭蕉の心の揺れを嗅ぎ取って自の句とする小宮豊隆の主張に対して「成る程あなあたのやうにもとれますね。結局いろいろ意見を出してゐるうちに、両方から歩みよるやうな具合になりますな」と、自の句としての芭蕉の表現の矛盾を理解している。この巻の裏の花の座「花とちる身は西念か衣著て」の句も他の句と取るか自の句と取るか、意見が分かれているが、ここでも小宮豊隆は自の句としての芭蕉の心の揺れに踏みこんでいる。


貞享元年の「野ざらし紀行」の冒頭部分の「野ざらしを心に風のしむ身哉」の「身」は「野ざらし」の覚悟の心に対立する自然身体論であり、そこに詠嘆の「自」を見るもう一人の他者がいるから余韻が嫋嫋としている。この年の冬に名古屋の野水、荷夸らと切り結ぶような興行の座を持った例の木枯歌仙の「狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」の「身」は自己をも道化に茶化し、客体化の他己的自己の「身」と相通ずる。この他己的自己の表白は芭蕉ならでの余韻をかもしている。自他あいまいな句は外せ、と教える人もいるようだが、それらの他己的自己の矛盾的表現にむしろ俳諧連句の妙味が潜んでいるのではないだろうか。

 

こんな七十余年前のテキストを持ち出すのは、そのころから次第に軍国化の体制が思想や言論の自由を蹂躙して、侵略戦争をエスカレートさせたからであり、芭蕉を巡る自由な発言が、体制側に擦り寄った学者らの雑音に神格化され、エラン・ビタールの芭蕉の源泉も埋められてしまったからではないだろうか。平成の世の芭蕉「悪党」説も、その泉の蓋にボーリングのひとつの穴に違いないだろう。
 さらに甥の桃印の死去直後の元禄六年七月に芭蕉は「閉関説」を出した。

 「色は君子の悪む所にして、仏も五戒の初めに置けりといへども、さすがに捨てがたき情のあやにくに、哀れなるかたも多かるべし(中略)南華老仙の唯利害を破却し、老若を忘れて、閑にならむこそ、老の楽しみとは云うべけれ。人来れば無用の弁有。出ては他の家業を妨ぐるも憂し(中略)友なきを友とし、貧を富りとして、五十年の頑夫自書、自禁律となす」
 もう人には会いたくない、という「閉関の説」の冒頭に、芭蕉はなぜ色の道を持ち出したのだろう。

 ○芭蕉の千束の恋


ここで言う芭蕉の「色」は男女両道の恋の道である。西鶴の好色もののピンクから薄紫に変わった「あわれ」を意識していたのではないだろうか。しかも「さすがに捨てがたき情のあやにくに」を言いたいばかりに冒頭に飾ったのではないだろうか。甥の桃印が死に、不義密通の寿貞尼が二人の娘を連れて芭蕉庵に転がり込む気配を感じていたのではないだろうか。閉関は一ケ月で解除され、芭蕉庵で野披らと歌仙興行が再開された。


 「道祖の社月を見隠す」    濁子
 「我恋は千束の茅を積み重ね」 芭蕉


この「いざよい歌仙人」には「奥の細道」を随行した吉川神道(幕府神道方)一派で幕府隠密の曽良も駆けつけているが、「千束の恋」は、西鶴のあの『好色一代男』の世之介の高笑いを思い出させる。しかし、桃印と駆け落ちして芭蕉の深川隠棲を余儀なくさせて張本人の寿貞尼が亡くなった。


 「数ならぬ身とな思へそ霊祭」


 元禄七年六月。それを旅先で知った芭蕉が寿貞追悼の句である。これは最後の愛弟子・浪化の編集した『有磯海』にも芭蕉の手向けの句として収められている。子の句碑は芭蕉の菩提寺、伊賀上野の愛染院の芭蕉句碑近くに建てられているが、芭蕉はやはり色の道を「あやにく」と思っていた。この述懐は、芭蕉が没する一年二ヶ月前の裏も面も知り尽くした幇間の色懺悔。即ち、芭蕉が幼少のころから諳んじた光明真言の即身成仏の境地であった。それを芭蕉が「軽味」といったとしたら、禅門の若き天才だった支考ぐらいしか理解が及ばないだろう。芭蕉はもはや余人の理解が及ばない魂の浮遊感覚の世界に入っていたのかもしれない。


 「我恋は千束の茅を積み重ね」の付は自の句であろう。}しかし、「我恋」と表白した時は、単なる自の句ではない。相手、それも女ばかりではない。男もいるのである。平安の時代から休廷でのお歌会では男が女の立場で恋の歌をいかにうまく詠むかでその歌人としての力量が問われた。そんな文芸の伝統の延長線上に芭蕉の俳諧文学が成立しているのだから、この付句は俳諧の付句と理解すべきであろう。


○五句連続の自の句を取り上げた根津芦丈

最期になったが、芭蕉の連句の座の自の句が五つも続いている例を挙げてみたい。
伊勢派の最期の宗匠と仰がれた根津芦丈に東明雅氏が聞いた『芦丈翁俳諧聞書』に芭蕉の時代の付方について詳しい。序文で東明雅氏は蕉風俳諧を滅亡させたのは子規であり、それを歪んだ形で再興したのは虚子であり、二人の罪を比べれば、子規より虚子が重い、と芦丈翁は断罪していたと、述べている。

 手元のこの著書は東明雅氏に師事した矢崎藍女史から戴いた貴重な資料である。芦丈の言葉として森山鳳羽が登場するが、「これは連句の名人だね」と評価が高い。森山鳳羽は富山県三代目知事の森山茂の事であるが、富山県ではすこぶる評判が悪くされている。民主主義の敵、選挙干渉事件の張本人とされているからである。


しかし、下平かつみ翁が真冬に天狗のように信州から現れて富山県で一月の人の日から歌仙を巻いて三月までに百巻を仕上げ、『富山百歌仙』を世に問うたが、この序文は森山鳳羽である。大正時代まで富山の俳諧連句の指導的位置にあった事が次第に明らかになって来ており、富山県史近代編での森山氏非難は一方的であるのは、当時の政党新聞の受け売りに終わっているからでああろう。 本題に戻そう。


 奥の細道から帰った翌元禄三年冬、去来の「鳶の羽も刷ぬ初しぐれ」を発句とする芭蕉、凡兆、史邦の四吟歌仙「鳶の羽」の自の句の五句連続の付を取り上げている。裏の花(十七句目)から名残の表三句(二十一句目)までがそれ。

苔ながら花に並ぶる手水鉢   蕉
ひとり直し今朝の腹だち   来
一時に二日の物も喰て置    兆
雪げに寒き島の北風     邦
火ともしに暮れバ登る峰の寺  来

「ほとゝぎす皆鳴仕舞いたり」の芭蕉の句で人情なしの場の句でこの高まりのワンフレーズは収められている。前々の句と自の打ち越し。連句で一番嫌う打越。ここの輪廻で気流が逆戻りするから嫌うのである。しかし、「これでなぜいいかと言えば、見事によく進展してるですだ」と芦丈翁は指摘、「このように見事に転じでいればそれでいいと、芭蕉の心法というのはこのことですだ」とまで高く評価、心服あたわない。

 手水鉢を並べていると、自然と「腹だち」が直る、との去来の付は少し遣り句気味。ところが凡兆の「一時に二日の物も喰て置」は波乱含みでボルテージを高めている。史邦の「雪げに寒き島の北風」は流人、俊寛の面影すら浮かばせる。

 東明雅氏の「芭蕉の心法」の註釈は「八方自他伝にとらわれない芭蕉の転じの方法。付けでは、あるものは付く、無いものはつかぬ、根を切れ、続きをいうな、であり、転じでは、付方自他伝、の手法を重んずるが、それにとらわれないものと思われる」となっている。東明雅氏は芭蕉と同時代の天才俳諧師、西鶴の研究者であった事を忘れてはなるまい。

 「あるもの」とはオブジェのものも含んだ実体。現実であろうか。「無いもの」は根も葉もないこの娑婆ものでないものを、あるいはイメージのないもの、をも含むのだろうか。

 奥の細道の翌年には、凡兆、史邦を加えた座でより融通無碍な境地を開く。これを「軽味」の付と転じというのだろうか。だから、加賀に引っ込んだままの北枝に出て来い、と要請したに違いない。 去来はこの新しい軽味の方向に足踏みをしているのに、自作自演の「去来抄」では、天才、凡兆を新米扱いしている。ブルトンとも俳諧の魅力を論じ合ったシウールレアリストの詩人、瀧口修造が「去来抄」を読んで寝たら悪い夢を見た、と書き残している。


この去来の悪党ぶりを見抜いていたからであろう。また、民俗学者の柳田国男は戦後、芭蕉の付のおかしな所を指摘している。人間芭蕉を再び神様にしてはいけない。教条主義批判が大切である。まして自他場でじたばたしてはなるまえ。付け方は無限である。連句は前へ進め、である。


     (富山県連句協会設立事務局長、富山市在住)

くろべ四十八が瀬を渡らなかった芭蕉

 ―曾良の随行日記の共同正犯性ー

  野島 清治

 元禄二年(一六八九年)の芭蕉の「おくの細道」。「くろべ四十八が瀬とかや」は、「いろは川」「四十八が瀬」と呼ばれてきた黒部川の段である。当時、すでに天下の愛本橋が架っていたし、河口部には二ヶ所に渡守が設置されていた。それなのに、わざわざ身の危険を冒して急流の川を徒歩渡りする必要があっただろうか。芭蕉が大好きだった木曽義仲活躍の軍記物などに登場の「いろは川」徒歩渡りのパロディーとしてのロマンで彩られたのではなかっただろうか。

 くろべ四十八が瀬とかや、数知らぬ川をわたりて、那古と云う浦に出。担籠の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、藘の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、かゞの国に入。

  わせの香や分入右は有磯海

 芭蕉の北陸路で越中での紀行はこのようにわずか数行。しかも,宿屋の名も人物も出てこない。金沢滞在の十日間に比べても境の関所から倶利伽羅峠越えまで二泊三日行程。急ぎ足で越中を通過している。

 冒頭の「くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて」の「数知らぬ川」は①黒部川をはじめそれ以西の片貝、早月、常願寺、神通川など「那古』(放生津)までの全ての河川を差すとの説と②黒部川以外のこの間の河川と解釈した説がある。しかし、和田徳一元富山大学教授は『越中俳諧史』の中で二つとも否定して「数知らぬ川」はくろべ四十八が瀬と一体であるとの説を出している。しかし、「数知らぬ」という表現の反対語が「数ある」だとしたら、芭蕉の頭にひらめいた謡曲『羽衣』の一節「我も数ある天乙女」の「数ある」のフレーズがあったに違いない。芭蕉の愛妾寿貞尼が芭蕉の留守の芭蕉庵で元禄七年六月に死去の報せに接して芭蕉は「数ならぬ身とな思ひそ玉魂祭」と嘆き悲しみ、この句碑が伊賀上野の菩提寺・愛染院に建立され、浪化編「有磯海」にも編集されているが、このように芭蕉は「数」のフレーズはおろそかに使っていない。「くろべ四十八が瀬」は中世の軍記物や紀行文にも名高い川であり、その対語として「数知らぬ川」との文脈の意味を考えれば、②の説が肯定されよう。和田氏は幕末の「新川郡海岸地図」の泊(朝日町)-三日市(黒部市)間に十五本の河川が書きこまれている事と「四十八が瀬」を結び付けているが、やはり「瀬」と「川」の混同の整理が付かない。

 元禄二年ころまでには黒部川扇状地の開拓が進み、多くの堤防が築かれ、河口近くの下流は二本に分流、それぞれに加賀藩申し付けの渡船と渡守が置かれていた事が奥田淳爾元洗足学園魚津短大教授の『黒部奥山と扇状地の歴史』に取り上げられている。芭蕉が「四十八が瀬」と書いたのは、弥陀の四十八願の「いろは川」を自分が渡るという「わが身」の自の句の気分のため。しかも市振の遊女(西行に宿貸す謡曲『江口』の遊女や境川上流の謡曲『山姥』の舞台)の幻想的釈教の余韻を表現したかったのではなかろうか。

 また、金沢で披露の「早稲の香や分け入る右は有磯海」の有磯海は万葉集以来の歌枕である高岡市国分浜から天晴の岩礁の一帯としても「早稲の香」と関係はどうなるのか。戦前までの越中の早場米地帯は富山県東部、特に黒部川扇状地帯が中心であり、氷見市を含む旧射水郡はむしろ晩生米地帯である。和田教授のように早稲の香と有磯海を無理にくつけると、見たような嘘の句になる。籠瀬良明元日本大学教授・文学博士著『黒部川扇状地』によると、黒部川扇状地は最も典型的な早場米地帯である。冷水と花崗岩砂礫層のため気温の最も高くなる七月下旬に稲の穂が開花して受粉しないと不稔米になる。水の浸透がひどく、ざる田とさえいわれていた水田が戦後の流水客土事業でかなり土壌改良が行なわれ、増産も進んだが、冷水対策は難しく、早場米地帯は今日も変わらない。

 芭蕉が「早稲の香」を感じたのはやはり早場米地帯であるとしたら、越中路ではまず黒部川扇状地周辺であり、有磯海近くではない。「早稲の香や」と上句が浮かんだもののなかなか下句が出来ず、そのまま倶利伽羅を越えてしまった。加賀入りの挨拶であると同時に気がかりな歌枕のある越中路に対する惜別の句である。「荒海や」の句と手法が似た「や」の切字を生かした虚構のポエジーの句である。芭蕉の得意な幻術のなせる技である。朝日町,滑川市、富山市水橋、射水市新湊,氷見市にもこの句碑が建立されているが、どこに建てようと文句は言えないだろう。

 ○入善ニテ馬ナシの疑問
 一方、記録魔とも云える随行者の曾良の旅日記にしても越中の段の記述は比較的に少ない。

 旧暦の元禄二年七月十三日の段
  入善ニテ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持セ、黒部川ヲ越。雨ツヾク時 ハ山ノ方ヘ廻ベシ。
 橋有。壱リ半ノ廻り坂有。

 曾良の日記によると越後の弥彦を出発の七月四日から四日夜中強い雨、五日も雨、六日に晴れたものの七夕の七日は雨止まず,しかも肝心の夜中は「風雨甚」であった。「荒海や佐渡によこたふ天河」どころではなかった。八日には雨が止んだが、九日,十日に「折々小雨」。十一日、十二日は快晴だったものの、黒部川を越える三日前まではかなり激しい雨も降っていた。奥の深い黒部川の水量は少なくなかったはずである。

 芭蕉ははたして北陸路で「くろべ四十八が瀬」を渡ったのだろうか。曾良の日記によれば、徒歩渡りしたようなイメージを抱かせる。しかし、①水量が少なくない②上流には有名な愛本の刎橋が架っていた③下流の河口部近くでは二ヶ所に渡守が設置されていた④当時、参勤交代では北陸街道は整備され、官道として愛本刎橋経由につれて右岸の舟見の宿と左岸の浦山の宿にそれぞれ本陣が設置され、宿場には駅馬の頭数が定められていた。しかし、黒部川の上流の谷川の水が凍結する厳冬期は入善経由で黒部川を渡る下街道が利用出来た(ちなみに映画『黒部の太陽』で工事中のトンネルに大量の地下水を吹き出していた破砕帯の水が厳冬期に凍結、天の助けとばかりに突貫工事を成功させた感動的なシーンのモデルも黒部の水で育った不屈の男であった)。江戸末期ごろには愛本橋架け替え工事が遅れてしばしば沿岸の漁船総動員の船橋仮設で参勤交代行列の通過が記録されている。愛本橋はいかに大切な官道の橋であったか。

 当時の天候や加賀藩の交通整備状況からすると、曾良の日記のような黒部川渡りは不自然であり、黒部川を渡ったのは上流の愛本刎橋であった。このように考察するのが自然ではないだろうか。

 曾良日記の「入善ニテ馬ナシ」も疑問。
 入善は下街道の宿場であり、宿馬も八年前の天和元年一六八一年)に二十二頭(舟見の宿は二十五頭)に定められているから、ないのはおかしい。出払った後と見る事も可能だが、夏場は上街道の舟見の宿へ移動の例が記録に見える。

 堀切実編『「おくのほそ道」解釈事典』を見ても、上流の愛本刎橋を渡ったと考察する論文は見当たらない。国文学者はこんな仮説を相手にしない。旧加賀藩領の加賀・越中で芭蕉の悪口をたたこうものなら、消されるという。『奥の細道紀行』をかつてある旅の雑誌に寄稿した先輩の詩人(戦前の雑誌『蝋人形』に詩を発表、元地元新聞文化部長)が筆者の身を心配してくれた。しかし、この仮説を発表する天の時に黒部川流域出身の思いの炎を消す事は出来ない。

 ○小宮豊隆の芭蕉間違いの指摘 
 「多少でも丁寧に『おくのほそ道』を読んだ事のある人には、恐らく誰にでも気がついてゐるやうに、『おくの細道』には、地名の誤りや、書き違いや、街道からの右左の指定の間違ひや、あるいた場所の順序の顛倒などが、随分頻繁に出てくるのである」

 戦前、岩波の肝いりで東北大学で連歌に詳しい山田孝雄博士、思想科学者の村岡典嗣博士(ドイツ留学の教授で「平田篤胤の思想に与えた耶蘇教の影響」で篤胤の神道論はバイブルの換骨奪胎である事を看破した論文を大正時代に発表済み)らと俳諧研究の座長をこなしていたドイツ文学者・小宮豊隆教授の『おくのほそ道』論での指摘である。なぜこのようなことが起きたのか。元禄二年の旅の事を筋に格調の高い紀行文が公開されたのは芭蕉の死後であるが、曾良の書写本や芭蕉の直筆本が執筆されたのは元禄四年夏に発行の『猿蓑』以降で芭蕉が死亡した元禄七年までの間、細かい覚え書を土台にしたものではなく、極めて簡単なメモなどを便りに書き上げられた、との卓見であった。

 近年、芭蕉真筆の鑑定に関わった上野洋三���阪女子大学教授『芭蕉自筆「奥の細道」の謎』の中で問題の「遊女と寝たり萩と月」の市振の宿(越中のと書かれている)の段は芭蕉最晩年に自らが書き加えたと鑑定している。その文末に「曾良にかたれば、書きとゞめ侍る」と記入されているが、曾良の『旅日記』七月十二日の段には「市振ニ着、宿」とあるだけ。旅日記は『おくのほそ道』の初校の段階あたりでかなり符号を合わせて書き換えられたものと見られるが、この市振の段の食い違いはなぜ起きたのだろうか。曾良の『旅日記』が発見された昭和十七年ころには東大講師として俳諧文学を講義していた志田義秀文学博士は『曾良 奥の細道随行日記』(山本安三郎編)出版に際して序文の中で『おくのほそ道』の創作的結構の施しのある特長を看破しておられるし、その長男の志田延義博士(富山県連句協会初代会長、故人)も『おくのほそ道論釈』で歌仙形式と結び付けた虚構性を取り上げている。

 日光で芭蕉が剛毅朴訥の仁の老人・佛五左衛を登場させている。しかし、パリ帰りの洋画家で芭蕉研究者であった小杉放庵の妻がその仏五左衛門の子孫であった。子孫の伝によると、佛五左衛門は日光の手前の今市の脇本陣の主であったが、曾良の日記では日光上鉢石町の宿の主人になっている。放庵は今市と日光上鉢石町の両方に佛五左衛門が居るはずがないから、と、これまでの一族の誇りを失ったと、落胆している。放庵著『故郷』の「佛五左衛門」の章にその嘆を書き残しているが、「室の八島」の後に今市で泊まり、佛五左衛門を出すと次ぎは日光で、神ー仏ー神と成り、連句の付け嫌う打ち越し。だから、「室の八島」から「日光」の麓の宿の主・佛五左衛門、神ー神ー仏の順に構成している。

 ○曾良剃髪の時期の芭蕉の嘘
 この日光の段の後半の黒髪山のところで曾良の「剃り捨て黒髪山に衣替」の句を挙げ、「旅立暁髪を剃りて墨染にさまをかえ」と、紹介しているが、曾良の剃髪は「おくのほそ道」の旅にでるその前の年のことであり、この件は芭蕉のデッチ上げの大きなポイントでもある。これも承知で曾良が「おくのほそ道」を書写したのだから、まさしく曾良も共同正犯の謗りを免れまい。 
 加えて芭蕉の『おくの細道』論考の大きな論拠とされて来たこの曾良の「旅日記」が、かなり眉唾ものであり、芭蕉のある種の虚構的紀行俳文集に大筋を合わせた共同正犯的作為の匂いがぷんぷんとしている事は見逃せないであろう。

 富山県連句協会理事で加賀、越中俳壇の研究家の藤縄慶昭は俳句雑誌『くらげ)』で十四回連載の『「奥の細道」北陸路の謎ー「曾良随行日記」の事実と裏面』を発表、曾良は金沢で仮病を使って江戸の鯉市、田平、川源に飛脚便を出している。鯉市は鯉屋市兵衛(杉山杉風・幕府御用魚屋)、田平は幕府神道方・吉川惟足の高弟で江戸の加賀藩邸で古事記進講の田中一閑の養子・平丞(式如)、川源は吉川惟足の神道を継いだ吉川源十郎との説を出し、曾良の隠密的行動と雄藩の仙台と加賀での記述の少なさの疑問などを指摘している。また、富山連句協会発足発起人理事であった密田靖夫氏(故人)も『芭蕉 金澤に於ける十日間』で芭蕉、曾良主従の謎の行動を追って生臭い匂いを嗅ぎ取っている。

 これらの畏友の勇気ある提言を踏まえて問題の「四十八が瀬」の段の疑問点を黒部川流域で生まれ育った筆者としては伏せるわけには行かない。
 
 ○今も続く黒部川に川流れ
 まず体験的に夏場の黒部川は徒歩で渡れるほど甘くない事を知っている。八月の旧盆ごろに黒部川の鮎がやっと遡上するのである。芭蕉が黒部川を渡ったとされる、現在の暦の八月下旬。少年時代の河童の体感でも黒部の水は冷たかった。黒部川から引いた用水の分流の背戸の川で冷やした西瓜も冷たかった。だから、高齢者と呼ばれる世代に入った筆者が芭蕉の真似をして「徒歩渡り」しようものなら、それこそ「老人に冷や水」。川流れとなって、三面記事になってしまうのがオチである。今日でも川流れが時々、新聞に載っている。黒部川の愛本橋真下あたりの合口堰堤から取水の合口用水が出来てから自殺の名所になってしまった。水は冷たいし,流れは速いから、飛び込んだら、絶対に助からないのである(今は危険防止のため暗渠のところが目立つ)。この両岸の合口用水の水は発電に利用された後、その大半は扇状地の中央部あたりで本流に戻されている。愛本橋のすぐ下流は水量が少ないから、それを見て下流の黒部大橋辺りで「徒歩渡り」出来ると早合点しては、それこそ「老人に冷や水」の危険にはまってしまうだろう。『おくのほそ道』の越中路を踏破したとうそぶく方もないわけではないが、黒部川を「徒歩渡り」したという記録はまだ見ていない。

 東海道の大井川は水深二尺で川止めされた。黒部川では水深二尺どころか、水深一尺でも急流の瀬では足を取られる。川越人足や馬ならば、持ち堪えらりょうが、一瞬たりとも川底の足のふんばりの気を抜くと、水にさらわれてしまう。足が自慢の飛脚などのプロは足を水に濡らすことをタブーとしていた。水に濡れると、足の疲れが早廻るからである。健脚で幕府隠密であった曾良にしては、その道のプロ。足を水に濡らすような真似は避けたはずである。曾良の旅日記によると、まして芭蕉は越後の能を出発の糸魚川市中宿と梶屋敷の間を流れる早川で躓いて衣類まで濡らしている。年のせいか、長旅の疲れのせいか。それにも懲りず、芭蕉は愛本橋を渡らず、下流に展開の「黒部四十八が瀬」を渡ったのだろうか。

 さるほどに、川越えで濡れる、といえば、元禄四年七月刊行の『猿蓑』の「鳶の羽」歌仙が先に世に出ている。

鳶の羽も刷ぬ初しぐれ      去来
一ふき風の木の葉しつまる   芭蕉
又引の朝からぬるゝ川こえて  凡兆

 東北大学グループの俳諧研究で山田孝雄博士は、芭蕉の静かな気分を朝発ちの気分で受けながら、「ぬるゝ川越え」で凡兆がとらえた不安を指摘、付けの転じをそれなりに評価している。それに小宮豊隆も賛同している。芭蕉の静寂の句に対する凡兆の付けは一種の愛嬌さえ漂っている。これは自の句である。しかし、芭蕉の「くろべ四十八が瀬とかや」の詠嘆の深さには沈潜した緊張感が張り詰めており、凡兆の徒歩渡りの句は及ばない。

 『おくの細道』の北陸道では、市振から越後、越中国境の境川を渡って加賀藩境関所を通過、滑川と高岡で二泊して倶利伽羅峠を越えて加賀の国に入った。とあるから、その間の難所「くろべ四十八が瀬」をどのように越えたのであろうか。境の関所の次ぎの集落・宮崎あたりから舟に乗り、滑川あたりまで舟を仕立てたたのであろうか。いや、加賀藩の許可を得ない舟旅はご法度、海岸警備隊長役の浦方十村が沖行く船を監視していた。やはり、曾良の随行日記にあるように「入善ニテ馬ナシ、人ヲ雇ッテ荷ヲ持タセ」、黒部川を徒歩渡りしたのであろうか。

 ○元禄二年に藩主が舟見で昼食 
 元禄二年当時は黒部川の平野部への出口に日本三大奇桟として名高かった愛本の刎橋が架っていた。参勤交代の北陸道の官道は金沢を出発、越中に入って滑川ー魚津ー三日市ー浦山の宿場から愛本橋を渡り、対岸の宿場・舟見にたどり、泊、そして国境の関所に至ったのである。

 加賀藩史料第五編によると、元禄二年のその年の三月二十九日に金沢城を出発した加賀藩五代藩主・前田綱紀の参勤交代の一行は四月九日に江戸に到着。十日間の日程であったが、その初日の二十九日は高岡、四月一日魚津で宿泊、翌四月二日には愛本橋を渡り、舟見本陣で昼食を取り、境の御旅屋で宿泊している。三日名立、四日関川、五日矢代、六日追分、七日板端、八日熊谷、九日の昼食までに江戸に到着している。

 この藩主の旅行中の四月四日、幕府から指名手配の探索に関連して、「他国者往来一宿の旅人にても、不審なる者候はば、その支配の御奉行より早速案内有るべきの事」とのお触れが出され、芭蕉のような他国徘徊者の取締りが強化されている。
 また、この年は洪水が多かった。五月十日には大雨で能登と越中で洪水被害が大きく、越中で六十六軒流失、四十三の橋が流され、堤防が大半被害に遭っている。

 芭蕉が金沢入りした七月十六日は快晴(曾良日記)となっているが、金沢浅野川右岸の観音山が崩壊して浅野川を埋めたのは集中豪雨で地盤がゆるんでいたからだろう。九月五日には八月七日から修繕工事中の犀川橋が完工している。ところが、同じこの九月五日、名代の愛本橋が焼失してしまった。江戸で藩主・綱紀は八月九日に将軍拝賀の席はご三家に次ぐ座列に昇格、将軍からの覚え目出度き関係を確かにしたが、その慶事の留守の間の出来事であった。芭蕉が越中、加賀を通過した後の不審火であった。

 寛文二年(一六六二年)の愛本橋架橋の際には加賀藩の筆頭家老本多安房守ら重臣が軍事上の砦の役目をする黒部川に橋を架ける事に猛反対、これに対して綱紀は「国の安危は政治の得失にあり、山河の嶮岨によるべきならず」と説得、外作奉行・篠井七兵衛正房に命じてカラクリ仕掛のような橋脚なしの刎橋を建立させた。長さ三十三間。両岸の岩盤から斜めに刎ね上げる重層の支柱には欅材を組み合わせ、差し渡しの長い木材は近くの明日山(あけびざん)法福寺領の杉の大木を伐り出して掛け渡した。法福寺は高野山系真言宗で加賀藩主の菩提寺の一つであり、加賀藩梅鉢紋を飾る法福寺山門前では参勤交代の藩主は籠を降りて参拝するのが慣わしであった。特に藩主綱紀は正室の父の会津藩主・保科正之(三代将軍家光の弟で四代将軍・家綱の後見役)から儒学の朱子学はもちろん、神道(幕府神道方・吉川惟足の儒家神道)の手引きも受けた。古代中国の君主の道を理想とした名君の誉れが高い。例えば、九十歳以上の高齢者には一日五合の扶養米支給など福祉政策、大日本史編纂を始めた水戸光圀に劣らぬ書府の確立、職人養成と保護策などを積極果敢に施した。愛本橋架橋はその徳政を象徴する施策であった。

 この綱紀は江戸往復の際は元禄二年に続いて元禄三年、四年、五年と舟見本陣で中休みをしている。愛本橋架橋につれて設置された浦山と舟見の宿。初期の舟見本陣の主は筆者の家系の一族の野島家であり、後に野島総本家は加賀藩十村役として黒部川扇状地の開拓のために入善に引越しを命じられ、その後任に脇坂太郎右衛門家が就き、信州など国境警備隊長役の加賀藩黒部奥山回役を歴代務めた。その本家筋の近年の当主は脇坂雄治元愛知大学長であった。幅の広い濠を回らしたその本陣屋敷跡に昭和の終戦前後、前田家縁の烏丸大納言が疎開、当主は海軍軍医上がりで筆者の心臓が少し右寄りである事をはじめて診断した名医であった。このように愛本橋架橋に伴なって設けられた舟見本陣もその堂々たる濠跡も埋められ、宅地化してもはやその面影を残していない。

 三大奇桟の愛本橋は大正時代に鉄橋となり、それも戦後の昭和四十四年八月十一日の大洪水で流失。数十メートル下流に現在のアーチ型橋に架け替えられた。元の刎橋の二分の一の模型が黒部市歴史民俗資料館に展示されており、元愛本村等を含む宇奈月町を合併した黒部市の市長も旧愛本刎橋復元を施策目標の一つに掲げはじめた。

 一方、国道8号線黒部大橋右岸下流約百㍍の入善町上飯野の旧街道橋詰に奥の細道記念碑が建てられている。上野洋三、櫻井武次郎両氏によって芭蕉自筆本と鑑定の「芭蕉自筆奥の細道」の書体の拡大コピーによる黒部四十八が瀬とかや 数知らぬ川を渡りて那古と云浦に出」の段が石碑に刻まれている。また国道新8号線に「黒部四十八ヶ瀬橋」が架り、大きな記念碑と看板が掲げられている。これらは、芭蕉の文筆の彩のおかげで平成九年に入善町で「奥の細道サミット」が開催された賜物であろう。この辺りの下街道は中世までさかのぼる。

 この辺りの下街道は中世までさかのぼる。
 「源平盛衰記」に寿永二年(一一八三年)木曽義仲勢の今井兼平軍が「鬼臥・寒原打過テ、四十八箇瀬ヲ渡シテ、越中婦負郡呉服山ニ陣ヲトル」とあり、黒部川の「四十八が瀬」の文献初出である。『義経記』でも義経一行が黒部四十八が瀬の渡しを越え、越後にむかっている。文明十八年(一四八六年)加賀の社僧・尭恵は魚津で長雨で足止めに遇い、「四十あまり八の瀬ながら長雨にひとつうみともなれる頃かな」の一首を残している。長享三年(一四八九年)五月二日越後から越中に入った詩僧・万里集九は黒部四十八が瀬の急流を大竹につかまって渡り、滑川に向かっている。
  
 ○三千風の二番煎じを忌避
 ところが、江戸時代に入り、黒部川上流に愛本刎ね橋が架けられてからは、芭蕉を除いてほとんどの文人、墨客は愛本橋を渡っている。池大雅、高山彦九郎、荒木田久老、頼三樹三郎らは紀行や詩文を残している。芭蕉と同時代の貞門俳諧師匠・大淀三千風は芭蕉の「おくのほそ道」の六年前の天和三年(一六八三年)に仙台を出発して全国行脚の途中北陸路を越後から越中に入った。六月十二日に愛本橋を渡り、「日本第一の奇桟」と絶賛「橋より下に見る川音の白雨かな」の一句を残した。元禄二年に発行の『日本行脚文集』にこの愛本橋見物紀行を載せている。越中では約一ヶ月滞在、滑川,富山,高岡などで句会を催し、貞門の有力な俳諧人と交流を交わした。二泊三日の行程で越中の俳人にも会わずに風のように去った芭蕉とは大きな違い。 芭蕉の晩年の弟子・浪化上人はその越中素通りを嘆いて句集『有磯海』などを編んだが、芭蕉の心中は計り知れない。
 
 芭蕉が愛本橋の句を残せば、当時俳諧師として全国的に有名であった三千風の二番煎じになってしまう。誠を責める蕉風を確立のための旅人であった芭蕉としてはそれは耐え難き事であったに違いない。また、芭蕉が故郷の伊賀で仕えた藤堂家と加賀藩筆頭家老の本多安房守家との繋がりは深く、本多安房守が架橋に反対した愛本橋に触れる気持ちが起こらなかったのかもしれない。その芭蕉の心中を察してか曾良も「雨ツヾク時ハ山ノ方ヘ廻ベシ。橋有」と、天下の奇桟・愛本橋の名すら記録していない。やはり共同正犯の謗りは免れないだろう。

 ○舟見本陣の脇坂氏建立の芭蕉の句碑 
 江戸時代の同じころ愛本橋を渡った近藤磐雄編『金砂子-加賀松雲公』には「之処は水蒼ふして深きこと不可知、瀬早き事大石の流るゝ音、遥かの頂に聞ゆ」と黒部川のただならぬすごさを書きとどめているが、黒部川から三㌔ばかり離れたわが故郷・旧舟見町に育った筆者は洪水になると、その轟音が聞こえ、大石のぶつかるときに生ずる青白い火花を見た記憶は生涯忘れられない。

 また、元禄から時代は下って天保五年(一八三四年)に舟見本陣で黒部奥山廻役であった脇坂太郎右衛門が舟見の真言宗寺院十三寺境内に芭蕉の「うらやまし浮き世の北の山桜」の句碑を建立、この「北の山」の立派な句碑は今日も同寺境内に保存されている。同じ「北の山」の句碑は金沢市の北陸街道の入り口に位置する同市神谷内町二番地の野蛟神社の境内にも建っている。もとは北陸街道脇に建っていたと伝えられる。芭蕉と共寝の門弟で加賀俳壇の重鎮であった句空編集の『北の山』の題名となった発句である。北の山は「加州白山奉納」の前書が付いている。加賀の霊峰・白山に対するオマージュとされる。加賀藩国境山岳警備隊長のような役職の脇坂氏がなぜこの芭蕉の句を選んだのか。芭蕉の徳川家に対するオマージュ「あらとうと青葉若葉の日の光」の加賀版とも解釈が出来よう。幕府神道方の吉川惟足、吉川源十郎と加賀藩主・綱紀、後に作事奉行にもなった生駒万子(加賀藩重臣・津田玄幡姉妹による浪化上人の相婿、加賀俳壇のスポンサー、吉川神道シンパ)に結び付く芭蕉随行者の曾良。その主人役である芭蕉。「くろべ四十八が瀬とかや」と、山手の愛本橋を渡らなかったように書き残した芭蕉。幻術使いのようなこの芭蕉に関する何らかの言い伝えがあり、国境の黒部奥山を警備する舟見本陣の脇坂氏はその謎を解く加賀藩の機密を知っていたのではないだろうか。

 その機密の一つに信州に抜ける隠し道の問題がある。
 舟見の脇坂家の当主は加賀藩御扶持人十村役として加賀藩農政の重要な役職を歴代務めた泊(朝日町)の伊東彦四郎家からの養子であった事、伊東家は加賀の千代女との俳諧交流の歴史を持ち、加賀俳壇とは深い関係にあった。舟見本陣の脇坂家の菩提寺は真宗大谷派雲龍寺であるのに、なぜ真言宗明日山法福寺系列の真言寺院の中尾山十三寺門内中央部に大きな芭蕉句碑を建てる事が出来たのか。山門正面の脇に立派過ぎるほどの脇坂氏貴和の句碑が建立されている事を思えば、行基作伝の観音三像(いずれも富山県指定文化財)を祀る中尾山十三寺で当時、宿場町舟見の俳諧が興行されていたのかもしれない。加えて芭蕉門弟の柳陰軒句空縁の卯辰山五本松宝泉は前田家信仰の摩利支天を祀り、金澤城の鬼門を守る前田家祈願所でねがった事からすれば、加賀蕉門の流れがこの寺にも届いたのかも知れない。

 かつては、明日山法福寺裏の舟川から峠を越えて小川に出て、さらに「相ノ又」谷を遡り、信州へ抜ける隠し道があったと地元には伝えられている。加賀の三代藩主・利常は黒部奥山廻役から信州への抜け道を尋ねていたし、自ら探索の行動の気配も記録されている。歴代の黒部奥山廻役はその国境警備隊長の役目を担っていた。句碑の「うき世の北」の「北の山」は「白山」に対する芭蕉のオマージュであったにしても、江戸から加賀藩領に至る最短距離の抜け道に舟見の本陣が位置していたとしたら、周囲に立派な濠と土塀を巡らせた舟見本陣(終戦直後まではその遺構が残っていた)は藩主の緊急避難所であったと考察する事が出来る。さらに芭蕉、曾良剃髪の一行は山岳信仰の出羽の羽黒山には入念な探索をしているのに「おくのほそ道」では加賀の白山(当時は幕府の天領)、越中の立山(加賀藩領)の山岳信仰に対する感心が少しも示されていない。しかし、すくなくとも曾良の役目からしてもその神社関係のメモからしても白山、立山信仰、衆徒に関する情報が必要であったに違いない。しかし、生駒万子らからその情報を得ていたとしたら自ら動くこともなかったのに違いない。そのような加賀藩、幕府の機密に関する言い伝えを舟見本陣の当主が聞かされていたのではなかろうか。
 
 (俳号・中山狐太、富山県連句協会事務局長、元洗足学園魚津短大非常勤講師として連句実作指導もした)

  =この芭蕉論は『連句年鑑平成二十一年連版句版』に発表の論文に一

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional