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堀田善衞の謎

堀田善衞の謎

堀田善衞の詩的暗喩に関するメモ
                                      野海青児


〔七月十日〕
 七月八日のメール拝見しました。お尋ねの堀田善衞の生まれた家・堀田善右衛門家の旧住所が明治二十六年九月の公文書「私設鉄道発起請願進達願」(高岡-伏木間鉄道敷設)から判明しました。富山県射水郡伏木町大字伏木本町三拾八番地です。
 〔七月十九日〕
 以上のような報告を致しましたが、善衞氏出生地の伏木本町三十八番地は現在不明になっています。堀田家が家屋敷を売却した後、三十八番地の所有者が他の番地を主たる番地として登録変更した可能性があります。生前の善衞氏は「旧本籍地抹消」の件を知っていたのかも知れません。その悲しみが堀田文学の底を流れているのかも知れません。
 現在の高岡市伏木本町十三丁目十三番地周辺であることは間違いありません。
 『鶴のいた庭』の中に描かれている蜃気楼については、蜃気楼を伏木から見ることは、非常に稀で堀田氏が蜃気楼を作品の中の描写のように見たとしたら、大変貴重な体験だと、考えられます。旧伏木測候所の報告書には伏木から一回の目撃記録もありますし、また、民間の目撃も確認されていますので、不可能ではありません。 〔九月十八日〕
 お帰りなさいませ。カナダのトロントでのアジア北アフリカ文学者国際会議で発表なさった堀田論の反響はいかがでしたか。堀田家の墓地訪問のご意向をうれしくお待ちしています。

 以上はわが国の『平家物語』研究の第一人者で昨年、トロントでのアジア北アフリカ文学者国際会議で堀田論を発表したY氏に昨年送信のEメールの要約、補筆。昨年六月の富山現代詩人会総会で筆者が発表の「同じ☆の下に生まれた瀧口修造と三浦孝之助、堀田善衞を結ぶもの」の中で行った堀田の田村隆一批判の要約を付記しなければ、田村隆一を現代詩の英雄にまつりあげようとする詩壇から堀田の詩がコミットされるおそれがある。
 〔大江健三郎が「『田村隆一詩集』全三巻は、おそらくわれわれ戦後の散文作家のすべてが畏怖すべき書物である」とたいへんな啖呵を切っているのはたのもしい。芥川が谷崎と詩精神をめぐって激しく論争したように、大江健三郎の詩への飢餓熱は相当高いようで、三島と違った意味で今後が注目される。しかし、「詩人は埋葬される時にすら直立したまま棺に入ることを希望する」という解説と、その最後に引用された「おれは垂直的人間/(一行飛んで)おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない」(『言葉のない世界』)の詩句に触れたとき、どうしたわけか、声をあげて笑ってしまった。(中略)詩の音韻とリズムにより、突然闇の中からオカメかヒヨットコが顔を出したのだろうか。ひよっとすると、埋葬されるときでも直立しているというイメージが落語の(死者の)カンカン踊りを連想させたのかもしれない〕=丸括弧内は筆者補足=
 この田村批判の件は、『新潮』(一九六六年)十一月号特集「わが詩歌」に対して筆者が批判した「詩は懐かしのメロデーであるのか」(同年十一月二十日発行の同人詩誌『象』に発表)の一文の中で高見順詩集『詩の淵より』と比較しながらエリオットの『死者の埋葬』をあげて必死の復活拒否の文明観とのズレからくるおかしさを指摘したのであるが、この年の三月に発行の『田村隆一詩集』は当時高価な詩集であった。
 ところが、それから二年後の一九六八年秋に発行の堀田の『若き日の詩人たちの肖像』の「扼殺者の序章」の冒頭に「少年 たしかに僕は故郷を出る道筋にいた/そこで記憶が中断する/火田民が襲って来て/そのどさくさに/機を見て僕はお前を扼殺したらしい」と「潟の風景」の一節を挙げている。一九四七年に上海から引き揚げて来たばかりの堀田が、砂浜に転がっていた屍(「お前 恐らくは僕の青春の屍よ」)を題材に「いつお前は僕を殺すだろうか」の挙げ句で結ばれる六十行ばかりの作品である。火田民(かでんみん)と言えば、富山湾沿岸で米騒動が起きたその年の大正七年七月十七日に堀田は生まれた。米騒動の火が燃え上がらんとしていたちょうどその夏の最中であった。衰えたといってもまだ何艘もの輸送船を持っていた堀田家もその火田民襲撃の目当ての一つであった。
 堀田の母は所有の米でお粥の焚き出しをしたので打ち壊しに遭わなかった。その事を母から聞いていた堀田は廻船問屋の国際意識とともに水平意識を生涯、文学の発想の根に据えていた。つまり、水平意識からすれば、堀田は死んで生まれたのであるから、安易な復活は許せなかった。この自伝小説に登場の「荒地」グループなどの詩人仲間の一人として田村隆一と見られる背が高くて帝王のような姿の詩人が出て来る。しかも、その男の実家の料亭に呼ばれ、物不足の中で御馳走に預かる場面もあるほど、二人は親密な関係にあった。彼の人間性を愛する故に田村の「おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない」の直立した意識を許すことが出来なかったに違いない。堀田は田村の「一九四〇年代・夏」の五行目から十三行目「われわれはわれわれの死んだ経験を埋葬する」十四行目「われわれはわれわれの負傷した幻影の蘇生を夢みる」までを引用してそれをこのように批判している。
 「死んだ経験を埋葬しなければならぬ、その当の男が死にかけていて、その死にかけている男が自らに殺人者、扼殺者であるという自覚をもっていたりしたら、負傷した幻影がたとえ蘇生したとしても、生きのびて行く機会は、これもまたはなはだあやういものであろう…。」。田村の生きながらの亡霊の視点からの垂直性を同じ『荒地』仲間の鮎川信夫が擁護しているものの戦争に駆り出され、生き帰った男、負傷しながらも祖国の土を踏んだ者が余りにも多かった。「殺人者、扼殺者」でなければ、生きて帰れなかったかもしれないし、実際、「殺人者」から逃れることは逃亡兵として処刑された。国際都市上海で終戦を迎えた堀田は生きながらにこの世の地獄を見てきたに違いない。
 末法の世の無常観を書いた『方丈記』を生涯論考し続け、晩年には人間嫌いの冷気か立ちのぼるような小説『聖者の行進』などを残したが、もう小説よりも散文詩といえるそれらの作品には肉体をそげおとした「痩せ男の能面」(氷見宗忠作)の眼光からこの世を見たような生死をこえた思想が瞬いている。
 「積極的無常観」が研ぎすまされたその詩的暗喩の世界はわが国の歴史が始まって以来初めてなめた得も言われぬ加害者民族の存在否定の匂いに包まれていると、言えよう。同じ死者をテーマにしながらも、観念のダイナミックなトレーニンクとしての言葉を手にした田村と彼我を越えた視点に晩年身を置いた詩人堀田とのギャップは余りにも大きいと言わざるを得ない。

                             (二〇〇一年三月記す)

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